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柏市にあるのに水戸工務店、その名前の由来と歩み
その由来は創業者の出身地が水戸であったため、故郷への愛を込めて名付けられたものです。
「大工一代~水戸工務店の歩み~ (少年時代~大切なのは人の和)」では、創業者の幼少期から、いかに大工になることを決心し、どのように現在に至ったのか、そのプロセスを掲載しております。修業時代を経て、独立以来400棟以上の注文住宅を手掛けてきた、創業者の想いと努力をご覧ください。
この大工一代記は、「少年時代」「修業時代」「家つくりは天職」「大切なのは人の和」編の4部構成になっております。当工務店の家づくりに対する熱い気持ちを綴っており、こちらを読んで頂ければ職人として仕事に真面目に取り組む姿勢を感じて頂けるのではないでしょうか。柏市で信頼の水戸工務店の歩みを、ぜひご覧ください。
人一倍負けん気が強い少年は、 人一倍努力して棟梁になった。 弟子を育て、家族を慈しみ、 自分の家を建てるつもりで お客様に向き合う生き方の底には、 自分を犠牲にしても 子どもたちを育ててくれた、 やさしい母への感謝の思いがある。
人一倍負けん気が強い少年は、 人一倍努力して棟梁になった。 弟子を育て、家族を慈しみ、 自分の家を建てるつもりで お客様に向き合う生き方の底には、 自分を犠牲にしても 子どもたちを育ててくれた、 やさしい母への感謝の思いがある。
待ちに待った卒業が近づいてきました。そんなある日先生から言われました。
「小林、お前の性格は職人向きだ。その中でも職人を束ねる棟梁になれ」。
なるほどそうか、と素直に納得した私は、水戸市から汽車に揺られて3時間、単身千葉の柏市にやってきました。
柏に行ったのは、親戚のおじさんの知り合いの大工の親方がそこにいたから。でもじつはもうひとつ、別の理由がありました。反発心の強かった私は、その頃誰とでも喧嘩をしていました。腕っぷしも強く、負けたことがありません。そんな私を地元に置いておくと、悪い仲間ができてよくないと、親戚一同が相談し、遠くに修業に出すことにしたそうです。そのことは後年知ったのですが(笑)
柏での修業時代は、我ながらよくやったと思うくらい働きに働きました。毎日5時半に起きて、基礎のコンクリート打ちをします。朝飯前の仕事、というわけです。いまのように指導してくれる人もいません。『盗んで覚えろ』という時代でした。仕事が終った後、こっそり図版を見て、墨付けのやり方を研究しました。
でも、つらいと思ったことは一度もありません。だって、一生懸命に働きさえすれば、褒められこそすれ、怒られることはないのですから。家にいた頃は、気分次第でわめき散らす父のおかげで、心の休まる時がありませんでした。それに比べればここは天国。私は水を得た魚のようにのびのびと仕事に励み、2年後には家を一軒任されるまでになりました。そして22歳で独立。先生が言ってくれたように、職人を束ねる”棟梁”として歩みだしたのです。
最後になりましたが、これからの私の課題は若い人材を育てることだと思っています。
私の時代のように厳しい修業は、いまはもう無理。けれども、日本の国が営々と培ってきた建築技術のすばらしさは、ぜひとも守り継いでいかなくてはなりません。
国土交通省バックアップの国家プロジェクト『大工育成塾』の受け入れ工務店として、若い塾生を預かり、現場の仕事を身につけさせているのもそのためです。以前、塾生としてやってきていた山田真美という女性が、卒業後、正式に水戸工務店の大工となり、さらに当社の大工と所帯を持つことになりました。その後に大工育成塾より預かった関根大貴も、育成塾卒業後、水戸工務店就職しました。これはとても嬉しいことです。志ある若者たちに、後を追いかけてほしいと思います。
家づくりという仕事は、人間をひと回りもふた回りも大きく育ててくれる仕事。
そして、人の心の痛みを癒したいという気持ちを芽生えさせてくれる仕事。
そう、どこまでもやさしかった母のように―。
私はこの仕事につけたことを、心から幸せに思い、感謝しています。