TOP > 大工一代〜水戸工務店の歩み〜
人一倍負けん気が強い少年は、
人一倍努力して棟梁になった。
弟子を育て、家族を慈しみ、
自分の家を建てるつもりで
お客様に向き合う生き方の底には、
自分を犠牲にしても
子どもたちを育ててくれた、
やさしい母への感謝の思いがある。
人一倍負けん気が強い少年は、
人一倍努力して棟梁になった。
弟子を育て、家族を慈しみ、
自分の家を建てるつもりで
お客様に向き合う生き方の底には、
自分を犠牲にしても
子どもたちを育ててくれた、
やさしい母への感謝の思いがある。
私の出身地は水戸で、5人兄弟の3番目です。家は農家でしたが、父が大酒飲みで稼いだだけ飲んでしまう。母が必死になって切り盛りし、何とか一家が食べているという有様でした。
私は小さい頃からいたずらっ子で、学校は大好きでしたが、給食費を持って行く時だけが嫌でした。その時の切ない気持ちは50年以上経った今でもよく覚えています。
忘れもしません。中学2年の時、学校から犬吠埼の灯台にバスで遠足に行くことになりました。費用は1,600円。母に切り出せず、私は行かないと決めていました。ところが友人のお母さんが「良三さんはどうして行かないの?」と訊ねたことから母に知られてしまいました。
「何で言わないの」。母はそう言って、近隣の農作業を3、4日手伝うという約束で1,600円を工面してきてくれました。
嬉しかった。でもみんなはお小遣いを持っていくのです。そこまでは流石に母もできなかったのでしょう。遠足の日の朝、そっと私を呼んで言いました。
「ごめんね。お小遣いをあげたいけれど、お母さん、これだけしかないんだよ。これでよかったら持ってお行き」。
母が開けたがま口の中には、10円玉がひとつ入っていました。
「いらない」
それだけ言うのがやっとでした。貧乏はいやだ。貧乏はいやだ。俺は早く働いて一日でも早く母さんにお小遣いをあげるんだ。
この日の体験は私の中に深く根を下ろし、やがて誰にも負けない仕事をするという原動力になっていったのです。
柏市にあるのに水戸工務店、その名前の由来と歩み
ある工務店です。その由来は創業者の出身地が水戸であったため、故郷への愛を込めて名付けられたものです。待ちに待った卒業が近づいてきました。そんなある日先生から言われました。
「小林、お前の性格は職人向きだ。その中でも職人を束ねる棟梁になれ」。
なるほどそうか、と素直に納得した私は、水戸市から汽車に揺られて3時間、単身千葉の柏市にやってきました。
柏に行ったのは、親戚のおじさんの知り合いの大工の親方がそこにいたから。でもじつはもうひとつ、別の理由がありました。反発心の強かった私は、その頃誰とでも喧嘩をしていました。腕っぷしも強く、負けたことがありません。そんな私を地元に置いておくと、悪い仲間ができてよくないと、親戚一同が相談し、遠くに修業に出すことにしたそうです。そのことは後年知ったのですが(笑)
柏での修業時代は、我ながらよくやったと思うくらい働きに働きました。毎日5時半に起きて、基礎のコンクリート打ちをします。朝飯前の仕事、というわけです。いまのように指導してくれる人もいません。『盗んで覚えろ』という時代でした。仕事が終った後、こっそり図版を見て、墨付けのやり方を研究しました。
でも、つらいと思ったことは一度もありません。だって、一生懸命に働きさえすれば、褒められこそすれ、怒られることはないのですから。家にいた頃は、気分次第でわめき散らす父のおかげで、心の休まる時がありませんでした。それに比べればここは天国。私は水を得た魚のようにのびのびと仕事に励み、2年後には家を一軒任されるまでになりました。そして22歳で独立。先生が言ってくれたように、職人を束ねる”棟梁”として歩みだしたのです。
独立以来、400棟以上の家をつくってきました。思い続けていたのは、自分が建てた家の前を通る時に、こそこそ通るような真似だけはしたくないということ。そしてその通りにしてきたという自信が、私にはあります。それは単にしっかりと仕事をするということだけではありません。大切なのは常に研究を怠らず、その時代でできる最高の技術で家づくりをするということ。そうでなければ、昔かたぎの大工の自己満足に終ってしまいます。
そうした技術の追求の途上に出会ったのが、『「いい家」が欲しい』の著者、松井修三マツミハウジング会長でした。平成3年(1991)、松井会長のモデルハウスを訪れた私は”自分の求めていたものがここにあった”と確信しました。それまでも断熱材やペアガラス、計画換気などにいち早く取り組み、家の快適性を高めるにはどうすればよいかを考えてきましたが、そのひとつの答えを見つけたと思ったのです。
しかしその当時、住み心地に大金を投じようというお客様はおられませんでした。見た目は少しも変わらないのに、およそ200万円も高くなるのはなぜ?とみんなに言われました。
「親方がいつもつくっている、しっかりした木の家でいいよ」。
そうおっしゃるお客様に頼み込んで、自腹を切って施工させてもらいました。私には一度住んでみれば絶対にわかってもらえるという自信があったのです。けれど、その答えが出るまで会社が持ちこたえられるかどうかはわかりません。ぎりぎりのせめぎ合いです。でもどうしてもやりたい。いいとわかっているものを、俺はみんなに伝えたいんだ。最後は大工としての意地でした。そして何とかこの我慢比べに打ち勝って、この新しい工法は、水戸工務店の家づくりとして定着していったのです。
家庭のやすらぎに飢えていた私は、絶対にあたたかい家庭を築こうと心に決めていました。おかげさまで明るくて働き者の伴侶を得て、4人の子どもと大勢の孫にも恵まれました。頑固で無茶ばかり言うと子どもからは言われますが、私なりに家族の状態に心を配っているつもりです。なぜなら、家庭がしっかりしていないといい家は建たないという思いがあるからです。
考えてもみてください。いつも夫婦喧嘩ばかりしている大工が、お客様が夫婦仲よく暮らせるようにと、様々な工夫をすることができますか?私は、家にはつくった者の心の状態がにじみ出ると思うのです。だから家族はいつも仲良く、みんなが自然体でいられなくてはなりません。幸いうちは家族も多いし、そこに職人たちも加わっていつもにぎやか。常に人のぬくもりを感じている孫たちは、心もおだやかです。大勢の中で自分らしく振舞うという術もいつの間にか身につけているようです。
最後になりましたが、これからの私の課題は若い人材を育てることだと思っています。
私の時代のように厳しい修業は、いまはもう無理。けれども、日本の国が営々と培ってきた建築技術のすばらしさは、ぜひとも守り継いでいかなくてはなりません。
国土交通省バックアップの国家プロジェクト『大工育成塾』の受け入れ工務店として、若い塾生を預かり、現場の仕事を身につけさせているのもそのためです。以前、塾生としてやってきていた山田真美という女性が、卒業後、正式に水戸工務店の大工となり、さらに当社の大工と所帯を持つことになりました。その後に大工育成塾より預かった関根大貴も、育成塾卒業後、水戸工務店就職しました。これはとても嬉しいことです。志ある若者たちに、後を追いかけてほしいと思います。
家づくりという仕事は、人間をひと回りもふた回りも大きく育ててくれる仕事。
そして、人の心の痛みを癒したいという気持ちを芽生えさせてくれる仕事。
そう、どこまでもやさしかった母のように―。
私はこの仕事につけたことを、心から幸せに思い、感謝しています。